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日本に戻ってきた香取とたろうが嵐を想い綴る「なまけ日記」
Family song 〜大人の遠足〜
2018年02月12日 (月) | 編集 |
とても不思議な体験をしてきました。

約2年ぶりに私の故郷、大阪に帰ってきました。
大阪は、思うだけでも涙が出そうになるような私の故郷です。
でも、もう実家もなくなり帰る場所はありません。(いえ、京セラドームがありますけど。)

そんな私が今回戻ったのは、同窓会のためです。

人との繋がりなんて全く希薄な私です。
家族の繋がりすら希薄で、誰のおかげで生きてんねんって周りに言われても致し方ないくらい失礼に失礼を重ねながら歩いてきた私を、同窓会に誘ってくださった方達がいました。

小学校の6年3組の皆さんです。
私は、大阪府枚方市というところで生まれました。
そうそう、岡田くんが枚パー兄さんの枚方市です。
そこには団地群がありました。
A棟だけでも46の建物がある、それがB、C、D、Eとありました。
その団地群の中にはスーパーがあって、公園があって、幾つかの小学校がありました。
私はその一つの小学校に通っていました。

大好きなクラスでした。
自分が今あるスタート地点はどこかしら?と探せば、必ず心に思い浮かぶ場所。
それが、その小学校の教室。
そして友達。
そして、先生。

先生は、当時25歳のバリバリの先生でした。
厳しくて、かっこよくて、怖くて、面白くて、自由で、たくさんのことを私たちと一緒にやってくれた先生でした。

小学校の周りには緑がいっぱいで、広い公園にはたくさんの遊具があり、
私たちはまっすぐに帰ったことなんてきっと一度もない。
小高い丘の上の大きな公園には自転車を飛ばして行って、ものすごいスピードで坂道を下って帰ってきたり、汚いドブ川を歩きながら帰ってきたり、探検と称してものすごく遠くまで自転車で出かけて行ったり。

そしてその結末はいつも「怒られる」というものでした。
崖の途中の穴に入って遊んで怒られる。ダンボールをおしりの下に敷いて芝の坂を下って怒られる。
たこ焼きを買い食いする。
遅くまで遊んで怒られる。

それでも、私にとっては飛びっきりの思い出ばかりでした。
そして、故郷を遠く離れて生きている私は、それは私だけの思い出と思っていました。

昨日、44年ぶりに小学校に入らせてもらいました。
先生も、友人たちも集まりました。
44年ぶりに会うみんな。
だけど、みんな私の名前を呼んで近づいてきてくれるのです。

私は、クラスのどこにいるのかわからない子だと思っていました。
勉強もスポーツも苦手。
鉄棒もお友達の力を借りて必死に練習して、やっと逆上がりができるようになったし、
授業中は手なんかあげないし、集中しないでぼんやり窓の外を見ているような
今は、教員なんてお仕事もしているけれど、きっと当時のお友達からは想像ができないこの職種!

だけど、みんながみんなのことを覚えていました。
なんて不思議。
みんなどんどん、6年生になりました。

一度も建て替えられていないと思われる校舎の教室に入れてもらいました。
36人、こんなに狭い部屋に生活していたんだね。
ロッカーのここが私の場所だったんじゃないかな?って思い出したり、
ベランダから見えるプールは、まさにその頃のまんまで
「逆に危険や。建て替えろや。」と言いたいくらい。
だけど、
そのプールの向こう側の崖の陰で、私は苔を育てていました。爆!今思っても意味不明。

そこでみんなとしたたくさんの話。

私が大好きだった先生は、みんなも大好きだった。
みんなで調べたことを模造紙にまとめて発表会をしたこと、
力の入った先生の同和教育のこと
みんな覚えてた。
みんな心にしっかりそのことを抱いて今日まで生きてた。

地面に穴開けたらあかんって怒られたビー玉もみんなでやってた。
私も、俺もやってた!ってみんなで言い合った。
ぐるぐる回る遊具では、◯◯ちゃんの回し方がめっちゃ怖くて、みんな必死にしがみついたな〜っていう私の思い出も、みんなの思い出だった。

先生に怒られたこと
先生がバイクに乗って、私たちの遊んでいるところに来てくれたこと
教室でタバコ吸ってたってこと(今なら考えられない、、、時代です。)
一番人気の男子は誰だとか
一生懸命に鉄棒の練習をしたこと
ドッジボールの時は誰の球が怖かったってことや
◯◯ちゃんは絵が上手だった。◯◯ちゃんは優等生で、◯◯くんはリーダーシップを取ってくれたよねとか
◯◯くんは話したことなかったけど、いつも短パンやったな〜とか。

そこに集まった私のお友達は、私と同じ思い出を、ずっとちゃんと心の中に持って生きてくれていたんだっていうことを実感しました。

そうなんだ。
私たち、2年間。
同じ教室で笑って、泣いて、喧嘩して、一緒に給食を食べたんだ。
暑い日も寒い日も。
雨の日も、お天気の日も。
まるで家族みたいに36人で一緒に生きていたんだよね。

何を見ても、
誰と話しても、
どんどんと思い出が湧き出て、ずっとどこかにしまっていたんだけれど、
時々手のひらに乗っけて、じっと一人ぼっちで眺めていただけの思い出だったんだけど
その思い出がどんどん溢れてきました。
そしてそれはもう、
すごくすごく幸せなことでした。

幹事の子がグループラインを作ってくてから3ヶ月。
この日をみんなで楽しみに話しながら、
その楽しみで楽しみたまらなかったその日は、
やっぱり飛びっきりの日になりました。

そして私は、この6年生のクラスにいるときに、大好きな担任の先生から「狭山冤罪事件」のことを教えてもらいました。同じ日本人の中で、こんなことがあるなんて、こんな差別があるなんてと、子供心に衝撃を受けました。中学生になっても、高校生になってもそのことは心から離れず、私がユダヤ人マニアなのも戦跡マニアなのも、水俣病を教えるのに水俣まで行ってしまうのも、もしかしたらここからスタートしていたんじゃないかしら。。。そう思っていました。

昨日はそのことを、先生にも伝えることができました。先生が忘れているっていうもっと衝撃的なこともあったけれど、だけどクラスのみんなは「覚えてる。覚えてる。」って言ってくれました。その後、狭山事件のことを新聞で目にするたびに6年生の教室を思い、先生を思い、その当時の自分たちのことを思ってきた、、、、そう私の友達はみんな言ってくれました。

今、私は教育者となり、いつもあのクラスみたいにしたいって子供達と接してきたことや
今は思想的なことを伝えることはタブーになってしまっているけれど、だけど伝えたいと思う戦争のこと、水平社のこと、民族浄化のこと、私たちの国がしてきた過去の過ちは事実を伝えたいと思うことや。。。。

そういうことが、ここから始まってて
あのとき12歳だった私たちは、みんなそのこと心のどこかにしっかり携えてきたこと
昨日は、そのことがわかりました。本当に幸せな空間でした。

もうみんないい大人ですからいろいろな人生と、いろいろな事情を抱えて生きています。
だけど、そこにたどり着いた子たちは、みんな幸せな子供たちなんだと思いました。

そして、やっぱり教育は尊い仕事だと思いました。

これは「答え」です。

私はいつも「答え」はいつ出るかわからないと思いながら、教育の仕事をしています。今、目の前にいる子供たちに私がしていること、それはすぐに形になんかならない。私が伝えたことは何にも残らないかもしれないし、全部ふわっと空気に溶けていっちゃうかもしれない。
そう思って仕事をしています。

44年前に、25歳だった私たちの先生は、きっとがむしゃらに私たちに伝えてくれていたんだと思います。失敗もしながら、だけど、みんなの心にそれが今もなお息づいている。
これが教育というものの「答え」なんだと思いました。

帰りの空港バスの中から、大阪の街を見ていると涙がポロポロこぼれてきちゃいました。北海道に引っ越しして間もない頃はよく伊丹空港で泣いていました。だけど、あれからもうずいぶん経って、北海道と大阪を行き来するときに涙なんて全く関係ないものだったはずなのに。
今日は、なんだか昨日の幸せな場所を思い出して泣きました。

そこは、やっぱり私の帰る場所。
もしかしたら、今はもう日常に戻っていった私の友達、あの教室は、私にとっての家族だったんだって思います。
どんな形だって
遠く離れていたって
見えない糸でずっとつながっていたんだね。

離れていたってファミリー。
血が繋がっていなくても、実在していなくても
もうそこに誰もいなくても
私たちはファミリーだったんだって思います。

たくさんのことに感謝です。
生きて歩いていけば、きっとまたみんなに会える。






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