小田和正「100年インタビュー」
2017年08月14日 (月) | 編集 |
あるときは、嵐オタ(ほとんど)。
あるときは屋良っちオタ。
今もスマオタ。
タキツファミクラ会員でもある。

そして、時々アッキーファン。

近頃はビリーオタの私。

そんな私が時々戻っていく、小田さんオタ。
ファンクラブ会員番号5000番代よ!
嵐なんか11万だよ。
ね!骨あるファンでしょう?

帯状疱疹で頭痛がひどく眠れなかった真夜中に、100年インタビューを見ました。
私が高校生の時、34歳だった小田さん。
大好きだった小田さん。
ライトブルーのセーターが似合ってた。
はにかんだ笑顔が素敵だった。
イルカさんが「超合金」って小田さんのことを言ってたけど、、、笑顔を作るのが苦手だった小田さん。

そんな女子高生の心をぎゅっと掴んだ、少年みたいな小田さん。
だけど、
私は、
萩原朔太郎や、室生犀星を
それから
立原道造の詩を愛する等に
矢沢宰が好きであるように
谷川俊太郎を尊敬するように
小田和正さんの紡ぎ出す「言葉」が大好きでした。

冬には冬のぬくもり
夏には夏の悲しさ


小田さんを大好きだったけれど、
その生き方を尊敬し、その知的な佇まいに憧れていました。

もうすぐ70歳を迎えるという小田さんの、インタビューに答える姿は、
私にとってあの34歳だった小田さんとなんら変わりない。
(こういう話すると引かれるスピちゃん的に言うと、彼の中に大人の男の人というのではなく十代の少年の背中みたいなのが、もうずっと何十年間も見え続けている小田オタの香取です。)

この3時間に及ぶロングインタビューの中には、
私が何度も心臓あたりをグッと抑えたくなる瞬間がありました。

このインタビューは今までおそらく周りがタブーと考えてきた「オフコース」のことがたくさん話されました。インタビュアーは、NHKの阿部アナウンサー。オフコース世代です。
おそらくご自身の大切な思い出はオフコースとともにあるのだろうと思われる方。
時折、小田さんの淡々とした話に、涙をこぼされるシーンも。
私達からすると、もうベテランアナウンサーの阿部さんに、
「君は、どう思う?」
なんて話しかける小田さんは、もうなんていうかね。
ああ、やっぱり私たちが小さい頃憧れていた人だなあと思う。

その、おそらくタブーとされてきたオフコースに関するインタビューの時、
オフコースファンならもう何度も何度も見ている「言葉にできない」で、小田さんが涙で歌えなくなる映像が流れた。

「俺は、ヤスがいない世界で、音楽をやっていくなんて考えることができなかった。」
小学生の時、塾の帰り道にビートルズをハモりながら、横浜の夕暮れの坂道を歩いた少年が二人。

「ヤス」
と小田さんが、今も呼びかける。
そこに私は胸がぎゅっとなりました。
小田さんにとって、鈴木さんはやっぱり中学高校の同級生の「ヤス」で、しかも映像では笑ってる鈴木さんに「ここのハモりこんな感じかな?」と相談する小田さんがいた。
「オフコース城」と言われていたそうですね。
プロデュースだってミキシングだって、なんだって自分達のやりたいやり方でやる。
高学歴のツートップを持つオフコースには、当時怖いものはなかったでしょうね。
そして、鈴木さんが脱退することを「無念だった。」という小田さん。

当時は、まだ子供で十代だった私たちは、どうやっても大人の考え方や事情を飲み込めなかった。
それは、まるでSMAPがこの世界から姿を消した去年と同じようでした。
オフコースは何にも話さないまま、忽然と私たちの前から姿を消した。。。そんな感じでした。

だから、その時のことを今、
「無念」という小田さんに
「なりたくて、ソロになったんじゃない。」という小田さんに、私の中のずっとずっとしまったまんまの箱を開かれたような気がしました。

なりたくてソロになったわけじゃないという小田さんは、一方で
「でも、ずっと仲良くやっていけるわけじゃない。」
とも話されていました。
小田さんのインタビューの中で何度も何度も出てきたのは
「音楽が好きだったからだろうな。」
という言葉。

だからこそ、
「音楽には妥協がない。」
政治は、折り合いをつけて妥協点を見つけていく、そう言った仕事だろう。
だけど、音楽には妥協するということはない。
だから、ずっと仲良くなんてやっていけないんだと小田さんは言う。

当時の鈴木さんは、順風満帆。
新しいスタジオの設計図が、私たちファンクラブの季刊誌に掲載されました。
どんな機材が準備されているのか、どんな楽器が揃っているのか、私達からすると勇ましく船出をしていく鈴木さんと残された4人という印象でした。
何より、小田さんの落胆は、私が当時の小田さんと同じくらいの歳になった時、もう一度読み返した季刊誌の中で知りました。。

その音楽に対する真摯な姿は、今も昔も全く変わらなく、
だからこそ、
私たちが何十年間も彼の生き方、彼の話す言葉、彼そのものを尊敬し続けることができたのだと思いました。

二つ目に、心臓が止まりそうになった阿部アナウンサーの質問。
「昔の仲間と、もう一度やることは今後ありますか?」
なんてこと聞いてくれるんや〜〜〜〜!って思いました。これだけは、これだけは、誰も聞けなかったことでしょう〜。

小田さんはさらっと
「それはね。やらないほうがいいでしょう。」
とニッコリ笑いながらおっしゃいました。
その瞬間に、大学受験に失敗したくらい落ちていった私。

でも、小田さんの言葉は続きます。

もう時間がないよ。
だって、やるなら「上回らなければ」ダメでしょう。

決してノスタルジックな思いなんかじゃ、もう二人は歌わないんだ。
もし、
小田さんと鈴木さんがともに歌うなら。
もう一度声を合わせて、あの時みたいに歌うとしたら

オフコースを上回る、質の高い「音楽」を生み出さなければならないということなんだ。

すごい人だな。。。と感心しちゃいました。
みんなが望むから、「じゃ、ちょっと思い出してやってみる?」っていうような感情的なことをこの人はしない。
鈴木さんを心から尊敬しているから
次に向き合う時は、二人でオフコース以上の、今以上の音楽を作り出す時なんだ。

「やらないほうがいいでしょう。」と言ってのけた小田さんの言葉に一瞬バッサリ切られたような気持ちだった私は、
小田さんは、光の方へ向かっていると確信しました。

私は、絶対に小田さんは鈴木さんと一緒に歌いたいはず、ずっとそう思っています。
聖光学園のホールの竣工式で、
ピアノを弾きながら
my home townを歌いながら、胸がいっぱいになったという小田さん。

ここで夢を見てた

小田さんはものすごい頑張り屋さん
鈴木さんも、負けないくらいの頑張り屋さん

私たち世代のお手本だった。
その生き方をお手本にしてた。
小田さん。頑張り屋さんで、何事にも真摯に向き合い、そして戦う人。
自分の強い気持ちを、大切にして、戦ってきた人。

今の時代の若い子には、なかなか難しい生き方だろうな。
頑張って頑張って、その先には何かが絶対あると信じて進む、そういう生き方。
「頑張らなくていいんだよ。」とかは、一切ない。

実は、香取もいつもそうだ。
きっと香取には小田さんが入ってるんだなって100年インタビューを見てて思う。

音楽には、
音楽性を高めるには何よりも大切なことがある。
「経験」だ。
生きてきた、自分の生きてきた道を楽しかったと、自信を持てる人は音楽性も高まる。
それはスキルとは離れた世界だ。

小田さんは、時間がないっていう。
上回るには、小田さんなりの「準備」が必要なんだろう。
だけど、
あの日。
分かれ道に立って、手を振り離れ離れになった小田さんの険しかった道。
鈴木さんの歩き続けた茨の道。
だって、
二人はオフコースだもの。
その山や坂や、崖っぷちや急流に冷静に、そして真摯に向き合って生きてこられた。

その化学反応を見せて欲しい。
そこに今のお二人の生き様とか、全部注ぎ込んで欲しい。
小田さんが「へへへっ」って書いておいてねって言った時間の中で。

お願いします。
小田さん。

オフコースの続きを。
あの時、忽然と消えていった私の愛するオフコースの
次のページを

どうぞ見せてください。

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