日本に戻ってきた香取とたろうが嵐を想い綴る「なまけ日記」
それはどこに残るのか
2010年01月15日 (金) | 編集 |
1995年の1月17日、阪神淡路大震災。
実は、その2年前の1月15日に、私の地元でも震度6の大地震があった。
半年も経たないうちに東方沖地震という大きな地震がまたやってきて、おかしなことに当時の私には「地震」はそんなにたいしたことではないものでした。

阪神淡路大震災の朝、私達はまだ冬休みの最中で、
「関西で大きな地震があったよ!」という家族の声で起こされた。
「震度いくつ?」
「はっきりしないけれど、6とか7とか言ってるよ。」
「6?たいしたことないじゃん、、、もうちょっと寝るわ。。。」
そんな朝でした。
再び起きると、テレビではもう災害の様子が映し出され始めていました。
その映像が尋常じゃなく、私は関西の実家に電話をしました。

当時、携帯電話というものがまだ普及しておらず、私は実家にかけつづけたのですが電話は繋がらず。

そのまんま勤務があったので学校に向かいました。
当時、私の勤めていた学校にはなぜか3人の関西出身の先生がいて、3人寄って「電話繋がった?」「大丈夫?」と言い合いました。
朝一番に、校長先生に「実家に電話は繋がったの?」と尋ねられました。
「学校の電話は緊急電話だから、すぐに繋がるようになっている。ここから電話しなさい。」
初めて私はそのとき、学校の電話がそういうことになっていることを知りました。
もちろん、私達の実家や家族、親戚関係は全て無事でした。(神戸ではなかったですし)

結局、テレビでしかその被害が拡大していくのを知ることはできなかったのですが、それはそれは胸の痛い、涙が溢れてくるものばかりでした。
私、ここでこうしていていいのかな。。。。何か手伝うことはないんだろうか。
そんな風にも思ったときでした。
あれから、15年たちました。

今日、大好きなテレビジャパンを見ていました。
神戸大学のある学部では、阪神淡路大震災の当時からずっと、震災遺族の方の聞き取り調査をしているそうです。
震災から10年以上経っても、まだ彼らはその聞き取り調査を続けているのだそうです。今では震災を知らない世代がその学部にも多くなったそうです。
始めた当初は、聞く側も被災者であり、震災の遺族の話を同じ立場で聞くことができた。
今はその大震災のこともテレビや文書でしか知らない世代が、その問題に取り組んでいる。。。その不安や葛藤をテレビでは特集していたのです。

学生さん達は、自分たちが取材をすることで思い出したくないことを思い出させてしまうのではないか、私達が聞くことで遺族の人達の心は解き放たれるのだろうか。。。など、このまんま続けていってもいいのか、、、という壁にぶち当たります。

数年前にある女性が、その大学の学生さんから取材を受けます。
その女性は、双子の子供さんのひとりをこの震災で失います。タンスの下で苦しむ声をあげる息子さんを、ご主人と何時間も助け続けるのですがその子は亡くなってしまいます。
それから、彼女は「悲しみだけが自分の人生」と思い続けて生きます。
そして、ご自身でこの神戸大学の学生さん達に取材を申し出たそうです。
神戸の街がどんどん復興する。その「復興」という言葉が大嫌いだったそうです。どんなに街が復興しても、自分の心はこれから先、二度と「復興」なんてしないんだと思い続けたそうです。
その苦しみをどうしていいのかわからなかった。。。その中で学生さんとの出会いがあったそうです。
真面目に真摯に、彼女の話を聞いてくれる学生さんとの出会いがあったそうです。

この番組は、最後に現在の神戸大学の学生さんと震災遺族の方達とのシンポジウムの場面で終わりです。
不安な中、聞き取り調査を続けるこの学部の学生さんに、その女性がマイクを取り話します。

「私は、あの時、取材を受けてよかった。先日、当時の取材された冊子を読み直しました。とても辛かったけれど、それでも一生懸命生きていた自分に再会しました。今、私はあのときがんばって乗り越えてきた自分を褒めてあげたい気持ちです。」
彼女はマイクを持って、そのことを学生さんに伝えます。

これは、亡くなった息子の「生きていた証」です。

確かにそこに息子がいた証を残していくことは、遺族が語っていくことでしかないのだと思います。

そう、まるで学生さん達を励ますように、女性は話します。


私、近頃「あれ?」と思うことがあります。
初めてニューヨークでワールドトレードセンター跡を見たとき、背筋が寒くなるような衝撃を受けました。
それから何度も訪れ、花を手向け、何度もその場所に向かいます。
この頃、「あれ、、、なんだかおかしいよ。私。」って思うのは、その風景が当たり前のように見えてきたことです。

ここには確かにワールドトレードセンターがあって、そこに多くの人が通い、当たり前のように仕事をしあの日、それが全て破壊された。
その壮絶な風景から8年経ち、今、工事中のクレーンがそびえ立つ風景が当たり前になっている。
そこでニコニコしながら写真を撮る人がいて、近所のピザ屋さんは当たり前みたいにデリバリーしてるんだろうし、ショッピングバッグを下げたお買い物帰りの人もいっぱい通る。
その人達にとって、ここはこれが当たり前の風景になったのかしら。
そして、香取にとっても。

ここは、ずっとこの風景のまんまだったんじゃないかしら?
そう、ふっと思うことがあります。

話がどんどん変わっちゃいますが、今日、例のおじいちゃん先生と英語の勉強をしていました。
彼の今日の宿題は
「アンネの日記はなぜ残されたのか、当時のユダヤ人はどうやって食べ物などを入手していたのか、、、黄色い星を胸につけていたのに。
最後に、どうしてあなたはこの本を選んだのか。」
この問いの答えをノートに書いてきなさいというものでした。

私は、1944年7月15日の彼女の日記が大好きです。

その中で、彼女は伝えます。
「どんな世の中になっても、この隠れ家の外で嵐が吹き荒れようとも、私は理想を失わない。なぜなら、人というものは正しく、この荒れ果てた世界も必ず正常に戻ると私は信じて止まないから。」

ゲシュタポに捕まるたった2週間前に、彼女はそう書いて筆を置きます。

なぜ彼女の日記が今日まで残ったのか。

「真実」を伝えることは、未来を作ることに繋がるから。
彼女は、正しいときもあればまちがっていることもある。
そんな普通の女の子だった。
夢を持ち続け、真面目に前向きに生きるどこにでもいる素直な女の子だった。

この特殊な場所に居ても、勇気と希望、そして強さを持ち続けた女の子だった。
その彼女の「生きた証」を残すことは、私達の未来を正しくつくっていくことにきっと繋がっていくから。
それは、平和な世の中に繋がっていくんだと思うんだ。

大切なことは、どこに残っていくんだろう。

街は変わる。
神戸の街は美しい街になり
新しいワールドトレードセンターも近い未来にはできあがるんだろう。

全てのものは変わっていく。
その風景は変わっていく。
だけど、
「真実」はきっと人々の胸の中に在り続けるんだろうと思う。

目に見えているものは
「まやかし」かもしれないな~。
おじいちゃんと話していて思った。

震災から15年も経ったんですね。
亡くなられた6434名の方のご冥福をお祈りします。
そして、遺族の皆さんの心が穏やかで、少しずつ幸せになられますように。

今日会った人は、おじいちゃんだけ。爆!
おじいちゃんとアンネの話をしていると、なんだか奥深い。
だけど、おじいちゃんは全部話さないんだ。
きっといつか、話してくれるよね?




コメント
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2010/01/15(Fri) 22:14 |   |  #[ 編集]
ヒミツの方へ
>ヒミツのあなたへ
コメントありがとうございました。
なるほど、そうだったんですね。

またこちらにもどうぞ遊びに来てくださいね。
2010/01/16(Sat) 08:22 | URL  | 香取 #-[ 編集]
こんにちは

そうですねもう15年ですね。
ウチの娘はこの震災の前の年に生まれました。
大阪の友達は1月のはじめに子供がうまれて
授乳のため起きていて地震を経験したそうです。
幸い被害は食器棚の中のものがわれてしまっただけで済んだそうですが。
私も義母の姉妹がいるので心配でしたが
香取さんと同じように「6ならたいしたことないね~」と軽く考えていました。
でもテレビには大変なことになっていることが映し出されていました。
すぐに連絡をとろうと電話をしましたがつながりませんでした。
香取さんの仰るように携帯もPCもそんなに普及していたわけではありませんでしたから・・・
すぐに「震災お見舞い」を書いて送りましたが
届くまでに1週間かかりました。
大阪でこんな感じですから隣の兵庫はどうだったんだろう・・・。
主人は西宮で中学時代を過ごしています。
ずっと気になっていたと思います。
3年前、奈良の伯母のところにいったのですが
その帰りに主人が住んでいたところに行きました。
幸い主人が住んでいたマンションは健在でした。
通っていた中学までのみちのり、空き地が目立ちました。
もしかしたら家が壊れてしまってそのままなのかしら・・・なんて思いました。
震災のことは風化させず語り継がれてほしいことです。
2010/01/21(Thu) 00:02 | URL  | rinkyohhen #-[ 編集]
街って変わりますよね?
>rinkyohhenさん
まぁ~~!!お久しぶりのお越し~~!!
いらっしゃいませ~。

以前、ご主人様のブログで、ご実家のあった団地をに見行かれた下り、、、覚えていますよ。
私、読みながら泣きました。

15年経って街も変わったけれど、心の中は見えませんよね。
きっと今も終わっていない方が多くいらっしゃるんだと想います。

今回のハイチは、考えられないほど恐ろしいことになっていますね。
アメリカの救援はどの程度できているのか?って想います。
私も何かしたい。。。何もできない。。。ニュースを見るだけです。
近い場所なんです。飛行機で、数時間で行けてしまう場所なんです。

こんなに貧しくて、こんなに大変なことになっているなんて。。。
阪神淡路大震災の時と同じように、私にできることは募金くらいかな~って想っています。

2010/01/21(Thu) 08:06 | URL  | 香取 #-[ 編集]
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